2019年10月
【秀吉の命令で築いた付城と思われる遺構を発見】
【宇須比第79号記事より 松井田文化会発行】
秀吉の書状の中に、松井田城攻めに付城を築くよう真田昌幸、
上杉景勝、前田利家に命じた旨が記されている。
付城は敵の城が要害堅固で落としにくい場合に用いられる戦法である。
小田原攻めの石垣山城(一夜城)を想定させる位置関係に西城の郭が存在する。
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松井田城址を空から見た布陣は↓こちらをクリックしてご覧下さい。
2018年6月
【梅ヶ谷津に新たな登城路と水の手を発見】
【宇須比第77号記事より 松井田文化会発行】
尾根と並行に築かれた大規模な人工の土手は他に類を見ない。
本丸下の水の手よりも水量の多い水の手と思われる水源も発見。
「梅ヶ谷津登城路」は、下の地図でNの辺り。
2019年2月
【水の手の大石に刻まれた文字を発見】
【宇須比第78号記事より 松井田文化会発行】
水の手の大石に刻まれた文字を発見、表面の苔を除去して文字を判読
書かれた数字の意味を考える。430年前の真田軍に思いを馳せる。
「水の手」は、下の地図でBの辺り。
天正18年(1590)4月7日、真田軍は松井田城の城下に侵攻し、城を包囲します。
10日、真田軍は松井田城の水の手を押さえ、20日、城主・大道寺政繁は開城・降伏したことが知られています。
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